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1965-1975

創成期

アクセス頂き誠にありがとうございます。このサイトでは写真とテキストで京都産業大学グリークラブの歴史をご覧頂けます。スマートフォンの方は画面右上のメニューボタンから次のページ(次の時代)に移動することができます。

​プロローグ

以下:森内昌三郎氏(初代グリーメン)が卒団の際(1968年:第1回定期演奏会)にパンフレットに寄稿したもの

 

 早いものである。ただ広い山の上に建った、一つだけの学舎の大学に入学してから、もう4年過ぎ去ろうとしている。 その大学生活の大半をクラブ活動で過ごしたと感じるのは、私1人ではないだろう。 私が「グリークラブを作ろう」とポスターを貼り出したのは、1年の終わり頃だったので、グリークラブでの生活は3年間になる。思い起こせば瞬時のように感じる3年の間には、楽しかったこと、苦しかったこと、ここに書ききれない程いろいろな事があった。 私たちが第1期生であった事も、余計にそう感じさせるのであろう。

  最初、練習場も色も何もないこのクラブに集まったのは10名足らずの学生である。昼休みなど大教室に集まり、出し合って買ったピアニカで音をとりながら発声練習をしていると、周りの一般学生から物珍しそうに見られ、恥ずかしく なって止めてしまったこともあった。そのようにしてグリークラブの 第一歩が踏まれた。すぐに新入生勧誘に動き出したがあまり成果が上がらない。おまけにいろいろな事情で辞めていく者が少しずつ出てきた。

  それでも体育館にピアノが置かれ(といっても用具室にであるが)12月には待望の第1回学内演奏会を開いた。 会場は大教室、入場者数50名足らず、指揮台は椅子、譜面台は教卓、ステージには12名の部員、音取りなしの、今考えればそれはもうひどい演奏会であった。が当時の我々は大変な意気込みであった。

  2年目(1966年)には、入部するものと退部するものがほぼ同数。とにかくグリークラブとは何をするクラブなのか、一般学生が知らないのである。 夏期合宿、混声合唱と分離など、行事・事件が相次ぎ、今年の4月から再出発を期した。本当に人に言えない苦しみが押し寄せ、それだけに楽しさが倍増し、その早い流れしか感じられない今である。

1965グリー創部

1965グリー創部

中央に森内昌三郎氏。1965年秋に合唱活動を企画した京都産業大学グリークラブの父である。

1968-69夏合宿

1968-69夏合宿

長野県飯山市 福知山醍醐寺での合宿風景。 記念すべき第1回定期演奏会を京都産業会館シルクホールで開催した。 以下:1979年に稲垣昌一氏(第3代学生指揮者)からグリーへ寄せられたもの 思えば10年前の昭和43年12月、京都産業会館シルクホールで第1回の定期演奏会を行った時の部員はわずか17名、他のクラブの応援があってこそ実現できた演奏会でした。当日券売場には応援団の団長、受付には体育会の副会長以下体育会員、演出関係には、放送局、楽器の運搬をしてくれたのは体育会の会長、はては動員が少なくてはと山岳部の主将以下各クラブの役員が河原町や四条通でチラシを配り各大学を回っての演奏会でした。準備は毎夜遅くまで当日応援のクラブも含めて暗中模索の第1回定演だったと記憶しております。  それでもわずか4人でスタートしたこのグリークラブが1年足らずで実現できた演奏会としてはその中身がどうであれ私には満足できるものでした。その後ここまで発展させてくれた後輩諸君の苦労に改めて感謝の拍手を送りたいと思います。

1969第6回京都合唱祭

1969第6回京都合唱祭

京都合唱祭に初出場する。 この年、合唱祭の参加説明会の場で産大グリーも参加意思を表明したところ、当時の藤堂理事長に「合唱音楽になるには、ある程度の人数が必要で10人位では・・・・」と言われる。 そこで当時2回生の西沢久隆氏(のち指揮者)が「どんな合唱団でも、最初から人数が揃って出来上がったものではありません、産大グリーはまだ生まれたてで、これから育ちます」と反論する。 そこへ隣にいた吉村理事もアマチュア合唱団を育てて来られた経験からか「どんな合唱団にも門戸を開くべきだ」といった内容の発言をされ理解を示してくださる。 結果、その日は「持ち帰って検討しなさい」という事になりグリー内で再度協議し「それでも出ます」となって了承を得た時には、プログラムの入稿〆切が過ぎており、合唱祭には出場したものの、プログラムには名前が掲載されることはなかった。 当時の吉村理事は36歳。晩年に全日本合唱連盟理事長(藍綬褒章受章)となられる器の片鱗を感じさせられるエピソードである。

1970長野県飯山市夏合宿

1970長野県飯山市夏合宿

吉村先生が産大グリーに関心を持って頂いた1972年の第7回京都合唱祭。曲はデュークエイセスの「永平寺」。1回生の若狭明光氏が指揮者・稲垣昌一氏の命令で左手にフライパンをもち、曲の間の手に踊りながら打ち鳴らしたのが当時37歳の吉村先生の脳裏に焼き付いたのか、音楽性が劣るのは仕方ないとして、その素朴さ、純粋さ、くそ真面目さ、規律正しさ、何かをやりそうだというポテンシャルに興味を持たれたのであろうか。産グリ創成期の音楽的基盤を作った故・稲垣昌一氏は破天荒な人でもあった。 以下:吉村先生記 私がはじめて産大グリーの演奏に接したのは、1970年春の合唱祭だったと思います。お世辞にもうまいとはいえないけれど、ユニークでゆかいな、それでいて一生けんめいなのが、とてもさわやかでした。

1973第10回京都合唱祭

1973第10回京都合唱祭

第7代幹事長の若狭明光氏が連盟理事を務めるようになり、吉村先生との関係が急接近する。(技術顧問になって頂いたのは1974年)1973年の関西コンクール(横山哲法氏指揮)でもいろいろご指導を頂くことに。 以下:吉村先生記 1973年、その前の年あたりから必死にアプローチしてきた当時の幹事長若狭君の熱意にほだされて、とうとう上賀茂の産大まで足を運んでしまいました。さっそく当時の学生指揮者横山君からコンクール自由曲の選曲の相談をもちかけられました。しかも、横山、若狭両君は即座に私のやっている京都木曜会に入団するというのです。うまく企まれたものです。コンクール直前、三条の信愛幼稚園を借りての熱気あふれる練習は今なお、鮮烈な印象となって私の心に焼きついています。コンクールの成績はビリから2番目でしたが、ゲスト審査員、福永陽一郎先生が4位をつけて下さったのに一同感激をしていました。

1974年3月卒団旅行

1974年3月卒団旅行

卒業する若狭明光・横山哲法両氏および同じく4回生だった同志社グリー/富岡健氏、ノートルダム女子大学の幹部など数名で、これまでお世話になった御礼の意味で吉村夫妻を琵琶湖畔に3月2-3日、一泊旅行にご招待する。吉村親分の誕生日であった。この後、お世話になった先生方との卒団旅行という習わしが毎年続くこととなる。富岡健氏には同志社グリー見学はもちろん、福永陽一郎先生にもこころ安く顔をつないでもらい大変お世話になる。

1974関西コンクール

1974関西コンクール

1969年から出場を始めた関西合唱コンクール。 1974年は7位銅賞であった。技術顧問として吉村信良氏を迎えた年である。 6月、龍谷大学混声合唱団ラポール演奏会賛助出演。 8月には夏休みを利用し倉吉演奏会(倉吉福祉会館)松江演奏会(島根県民会館)を開催。また鳥取女子短期大学女声合唱団ジグナスコールの演奏会に賛助出演と精力的な活動を行った。 以下:吉村先生記 強烈な口説きにとうとう落ちて、技術顧問を引き受けたのは、翌1974年の正月でした。そのころの私は、産大をいまのような全日本レベルに仕立てようという野望はさらさらなく、ただ、部員が音楽をつうじてしあわせに集まれる、そんなクラブづくりに協力しようということしか考えていませんでした。同年秋、コンクールでは7位ながら初の銅賞入賞を果たしました。

1975第12回京都合唱祭

1975第12回京都合唱祭

7月、横浜国立大学グリークラブとのジョイントコンサート♪月光とピエロ/ロシア民謡(大谷ホール) 以下:吉村先生記 同年冬、定演打ち上げの席でのことです。新指揮者に選ばれた橋本君が、おそろしくも関西金賞を狙うと宣言したのです。金賞なんて狙ってみても簡単にとれるものではないけれど、夢はデカい方がいい位に思っていました。ところが、彼と部員たちは金賞獲得路線の一環として、春には空前の25人の新入部員を強引にひきずり込み、前年までは想像もできなかったハードトレーニングをこなしていったのです。まさに、産大グリーのその後の方向づけを確立した年であったといえましょう。そして1975年秋、神戸での関西コンクールで、第2位ながらみごと金賞を獲得してしまったのでした。

1975 倍増した団員たち

1975 倍増した団員たち

以下:吉村先生のブログ「これこらコール」より抜粋 1974年学生指揮者の橋本(今は先斗町の居酒屋亭主)が、横山の時に、はじめてもらった関西コンクールの銅賞だが、自分の時にはどうしても金賞が欲しい、どうすればいいと相談に来た。私はなかば冗談に、いまの総員30名を80名にすれば何とかしようと請け負った。すると奴らは4月に、ほんとうに50人の新入生を拉致してきた。合唱未経験、むしろスポーツないしは応援団みたいな連中ばかり。これはおもろい。とばかり応援団張りの礼儀作法からシゴキ出した。  指揮者の橋本も異常ないれこみようだった。秋の関西コンクールでみごと金賞を獲得した。全日本への代表権はもらえなかったが。

1975 倍増した団員たち

1975 倍増した団員たち

1975 倍増した団員たち

1975 倍増した団員たち

以下:橋本泰敏氏(第9代学生指揮者)が1979年にグリーへ寄稿した文 第7回定期演奏会と聞くと、私の心にはいつも原点の思い出がよみがえってくる。その発端は1年前の第6回定期演奏会のレセプションまでさかのぼってゆく。  新幹部挨拶の席上、私はひとつ爆弾発言を行った。その時の発言(来秋の関西コンクール大学の部で金賞をとってみせる)が私のその後の流れを変えた。またわがクラブの流れをも変えたように思える。「金賞」この言葉に胸が張り裂けるほど苦しみ、悩み、恋した一年間であった。  団員の急増、どこの大学合唱団もやったことのない練習時間を費やした夏合宿、不安と期待で迎えた関西合唱コンクール。「産大グリー金賞」の声と同時に”ワァー”とあがった感性と団員の笑顔は今もなお忘れられない。  初の京都会館第1ホールにおける定期演奏会は、コンクールで全力を使い切った後だけに、冷や汗の連続のステージであった。それでもオリジナルの合唱組曲や、吉村先生の客演指揮、また佐々木先生の熱演やロシア民謡など5ステージを強行し、その後のレセプションにおいて部員全員の歓喜が頂点に達したのを鮮やかに思い出す。

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