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1996-2005
変化の刻
アクセス頂き誠にありがとうございます。このサイトでは写真とテキストで京都産業大学グリークラブの歴史をご覧頂けます。スマートフォンの方は画面右上のメニューボタンから次のページ(次の時代)に移動することができます。
コンクール一辺倒、、、という表現は賛否わかれるところかもしれないが、全日本コンクールへの出場がクラブにとって大切な意味を持っていたことは否めない。70〜90名の大所帯で過ごした20年。京産グリーはこの90年代後半からの10年で20名規模の合唱団へと姿を変える。この間に起きた変化とは何だったのだろうか。
1996 全日本宇都宮大会1996年の全日本宇都宮大会。90年代中盤より部員数が減少傾向に転じる。1996年度の定期演奏会は54名で開催しているのだが、部員数が60名以下になるのは実に20年ぶりの出来事であった。 20年前とはちょうど吉村信良先生から団員増のアドバイスを受け、団員を一気に増やし様々な運営基盤を整えた時期である。 | 1997 第34回京都合唱祭1997年度、グリー29回目の定期演奏会を迎えた。団員が半減する中、20年以上に渡って引き継がれてきた価値観や目標、その運営システムにも変化をつけていくことが急務となりつつあった。 この年より尾形光雄先生を常任指揮者として迎えている。 以下:2000年度の第34代学生指揮者 津田裕介氏による寄稿 私が入団した1997年。今思い返すと、かつての常勝産大グリーの残り香がまだあったように思います。しかし団員は往時から半減の40数名。当時私は先輩方についていくのが精一杯でしたが、先輩方は少なくなった人数に合わせた運営の仕方や選曲、またステージ構成など、常に試行錯誤されていたと思います。 失敗もあったかもしれません。しかしそれら試行錯誤の積み重ねが、その後20数名でグリークラブを運営していく上での土台になっていったことは間違いありません。 |
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変化すること定期演奏会パンフレットの表紙。 上の段は1991年から1996年までのもの 下の段は1997年以降のものだが、見ておわかりのように「京産グリーはこうあるべき」と言わんばかりの90年代前半のパンフレットに対し、伝統や慣習、先入観からの脱却を図ろうとするグリーメンの想いがそれ以降のパンフレットにも現れている。 前者は前に習えのごとくシックで品格のようなものを漂わせている反面、どこか内部が見えにくいデザインだが、時を経るにつれて徐々に今のグリー、ありのままの自分たちを表現したい、見て欲しいという想いが見えるものに変化してきている。 | 1998 関西コンクール団員数は20名規模でしばらくの間、落ち着くことになる。80名で作る音楽、20名で作る音楽。これからいろんな可能性を模索する時代が来た。この年より1995年度卒団のOB石原祐介氏がトレーナー兼指揮者としてグリーメンの指導に加わった。 |
2000 第37回京都合唱祭4回生5名。グリーメンとして最後の京都合唱祭である。 変化の中でも変わらないものがある。その一つは4回生たちの笑顔だろう。4年間同じ釜の飯を食べた仲間同士で見せる表情はいつの時代も格別だ。まさに青春のグリークラブである。 以下:2000年度の第34代学生指揮者 津田裕介氏による寄稿 10名でスタートした私たちの代は3回生になる頃には5名になっていました。 グリークラブには3回生が担う役職が数多くありましたが、この5名で担うということは、つまり一人で何役もこなすということになります。 奥野(T1) パートリーダー・渉外 津田(T2) 副指揮者・パートリーダー・楽譜 大内(B1) 副幹事長・渉内・内政・庶務 中野(B1) パートリーダー・ステージマネージャー 荒木(B2) 定期演奏会副実行委員長・会計・広報 一人一人が自分の仕事を全うしてくれたことに今でも感謝しています。 | 2000 全日本札幌大会石原祐介氏のトレーニングの元、4年ぶりに全日本合唱コンクールの舞台にグリークラブが立った。1回生から4回生まで皆が初めて体験する全日本であることは新鮮であり、そして重要なことだった。 京産グリーと言えば鮮やかなスカイブルーのステージコートだが、このコンクールでは初めてステージコートではなく、全身黒衣装で「Magic Songs」6曲を高らかに歌い上げた。 以下:2000年度の第34代学生指揮者 津田裕介氏による寄稿 入団以来目標にしてきた全国大会に出場できたことはもちろん嬉しかったのですが、それよりも嬉しかったのは、当時のOBの皆さんが喜んでくださったことです。 様々な形でご指導・ご支援いただき、「自分たちだけで歌っているのではない」ということを改めて感じる幸せな体験でした。 「産大グリーの全国大会の歴史がこれでまた繋がった」と言っていただいたことも心に刻まれています。 |
2000 全日本札幌大会演奏後、ダルマに目を入れる大内幹事長と津田学生指揮者 以下:吉村先生記 人数は少ないけれどひとりひとりの表情がいい、それぞれが歌っているのです。あたりまえのことなんですけれど、グリーのそんな姿に10年以上もご無沙汰していたみたいです。とても嬉しかった。 (中略) できたら来年の郡山の全国大会に出たいですね。でも変な無理をしてはいけません。1976年に産グリが初めて出場した高松での全国大会から1996年の宇都宮まで、音楽監督だった私はずいぶんいろんな失敗をしました。いま新しい歴史を歩もうとする京産グリーにはきっと役に立つと思います。どんどん利用してください。とはいうものの、正直私の理事長時代に石原くんの首に金賞メダルをかけてやりたいですね。 | 2003 第40回京都合唱祭リニューアル後の今も残る京都会館の中庭での記念撮影。グリー1年の始まりはいつも京都会館だった。50年を振り返ると、そこには毎年京都会館のステージに上がるグリーメンの姿がある。 創部50周年を記念する本日の演奏会で、新しく生まれ変わった京都会館のステージに立てるという幸せ。何かの縁を感じずにはいられない。 |
2004 第41回京都合唱祭同じく京都会館前での撮影である。2002年より1985年度卒団のOB曽田俊和氏がグリークラブの技術顧問として10年間現役生と共に時間を過ごすことになる。 この頃には京産グリーがかつて大変な大所帯で毎年全日本の舞台に立っていたことを肌で知るグリーメンはもういない(この写真の中ではただ伊吹元子先生一人を除いて)。すべてが若い京産グリーが今年も京都合唱祭のステージ立つ。 | 2005 関西コンクール2006年3月卒団の4回生たち6名。関西コンクール当日のこのシーン。胸に手を当て整列した同回生同士、どんな想いが込められていたのだろうか。皆清々しい。 |
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