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1986-1995
大合唱団
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1980年代、毎年Vを重ねコンクール常勝団体となった産大グリーはさらなる高みに登りつめていく。創部から早20年。その過程で団員たちから自然に湧き上がった「全日本コンクール」という目標は、1981年から1989年にかけての「全日本9年連続1位金賞」という途方もない結果をもたらし、また同時に新たな試練を若者たちに課すことになるのだが、、、
1986 全日本松山大会「たびだちの歌」「ごびらっふの独白」を演奏し大学の部6年連続の1位金賞。 部門を超えたコンクール大賞にもあと1歩と迫る名演奏となり、CD「珠玉のハーモニー」にも収録されている。 後年「産大グリーが最もいい演奏をした」と吉村先生が語っていた通り、産大グリーが眩いくらいに輝いた瞬間だったのかもしれない。 | 1987年 第24回京都合唱祭京都会館旧会議場棟をバックに整列する団員たち。 私語を慎み速やかに動く、全国レベルの合唱団としてふさわしい振る舞い、完成されたクラブの運営システム。団体行動に徹底した磨きがかかっていた時期である。 |
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1987年6月オペラ出演関西二期会定期公演 歌劇「魔弾の射手」 アルカイックホール 以下:当時のパンフレットより抜粋 合唱だけをやってきた我々にとって、歌って尚且つ振りをつけるというのは至難の技で、関西二期会の人に笑われっぱなしでした。 (中略) 本番では衣装をまとった上に化粧もして、しわだらけの老人になったり、もじゃもじゃの付け髭をつけたり、誰が誰だかわからない。 (中略) こんな我々ではありますが、またこのような機会があれば全員で臨みたいと思います。 | 1987 全日本東京大会「Die Nacht」「落下傘」を演奏し7年連続の1位金賞に輝く。 翌1988年1月の第19回定期演奏会には世界的な指揮者山田一雄先生を客演にお迎えして「くらげの唄」「落下傘」を演奏する。 1989年1月の第20回定期演奏会には日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者、京都市交響楽団常任指揮者などを歴任された小林研一郎先生を客演指揮者として迎える。 また第20回定期演奏会開催予定であった1989年1月8日(日)その日に昭和天皇の崩御。大喪の礼により、第20回定演は予定を順延し翌1月9日(月)に開催するというエピソードがあった。 |
1988年 CDレコーディング以下:第21回定演のパンフレットより抜粋 暦の上ではもう春なのに、未だ寒風が頬をさすここ守山市民ホールに、産大グリーのメンバーそしてOB達が続々と集まってきた。いったい何があるのだろう。実はビクター音楽さんの依頼で多田武彦先生の「雨」をCDに録音するためにやってきたのである。CD録音はこれが初めてではなかった。1月に高嶋みどり先生の「青いメッセージ」を録音していた。しかし実際録音が開始され、何度となくNGを出してやり直すにつれて団員に少しずつ疲労の色が見えてきた。それもそのはず、録音を開始してから終了までに7時間もかかったのだから。 努力の甲斐あって両方とも大変素晴らしい出来上がりだと聞いている。ぜひ機会があれば、この422曲も収録されている名曲集を手に入れたいものだ。 ※このCDは現在京都産業大学内の図書館にも所蔵されており自由に聴くことができる。 | 1989 全日本福岡大会9年前と同じ福岡サンパレスホールでこの年、前人未到の大学の部9年連続1位金賞を受賞する。演奏曲は9年前と同じ新実徳英先生作曲「ことばあそびうた」であった。 |
1990 全日本を終えて1991年1月第22回定演パンフレットからの抜粋写真。 毎年、新生グリーは誕生する。すでに創部から25年の月日が流れ、少人数でのクラブ創り、関西コンクール突破、全日本出場自体に大いに沸いた頃のことを知るメンバーは誰もいない。内外からの評価が究極にまで高まり、金賞を毎年期待されてきたグリーメン。 1981年に夕闇迫る福岡サンパレスで初めて全日本コンクール金賞を獲ったその日、隣接する福岡国際センターで大相撲九州場所が開かれ、横綱千代の富士が優勝した。そこから大横綱千代の富士は大相撲九州場所9連覇を達成する。そして、1990年産大グリーが札幌大会に臨んだとき、千代の富士は貴花田(後の二代目横綱貴乃花)に10連覇の夢を絶たれた。時を同じくして続いた10年間に因果なものを感じずにはいられなかった。 時代は流れ、社会や環境が変わっていく中で、変わらないものはグリーメンのクラブ運営と音楽に対する真摯な姿勢。大いなる試練を天から与えられた産大グリーは当時の4回生を中心に「限りない可能性と発展へのチャレンジ精神」をもって次なる時代の新しいスタートにつなげたのだ。 | 1991 全日本岡山大会全日本への出場権を獲るため、実に10年ぶりに挑んだ関西コンクールを突破し、再び全日本の舞台へ。 かつてのような圧倒的な上手さはなかったものの、26名の1回生を仲間に加え全員一丸となって3位金賞を受賞し帰京した。 演奏曲はケルビーニ作曲 Graduale Offertorium |
1991年11月岡山にて岡山シンフォニーホールにて、カメラの前ではしゃぐ若者たち。 どんなことがあろうともクラブは常に新陳代謝を繰り返していく。クラブをあるべき方向に導く先輩もいれば、クラブに活気を与えてくれる新入生もいる。 | 尾形光雄先生それまでチーフトレーナーとしてお世話になっていた尾形先生を1991年から指揮者として迎え、1995年まで全日本コンクールで5年連続の金賞を受賞することになる。 |
1993 全日本大阪大会演奏終了直後の全体写真 涙をにじませる金島、北村両氏(学生副指揮者/副幹事長)。さまざまな重圧に耐え団員をここまで引っ張ってきた緊張の糸が切れた瞬間だったのだろうか。後ろには次期幹事長の萩原氏、次期内政となる藤本氏が。この大阪大会では3位での金賞受賞だった。 | 1994年3月の卒団生14名4月新入生勧誘 5月合唱祭 6月サマーコンサート 9月10泊100時間の夏合宿 10月関西コンクール 11月全日本コンクール 1月定期演奏会 2月フェアウェル 3月春合宿 創成期からお読み頂いた皆様にはもうおわかりのことと思うが、これは京産グリーが作られてゆく過程で自然と年中行事となった年間スケジュールである。合間に入ってくる学内外のお座敷を含めると2週間に一度は本番があるというハードスケジュールをこなさねばならなかった。しかも毎年20名近くの4回生を送り出し、30名近くの合唱経験のない新入生を迎えてである。 当時は14名という人数でも「少ない回生」と言われていた。90名規模の団員を幹部として統率し一つの目標を目指すには同回生同士の強い結束力が何よりも厳しく求められた。 クラブ発展の過程において形作られたこのスタイルと過密スケジュールの前では「創造力をもって自分たちのクラブを創る」ことは口で言うほど簡単なことではなかったと思われる。 何も縛られるもののなかったクラブ創成期〜成長期の自由奔放ぶりを振り返り実感した次第だ。 |
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