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1976-1985
成長の過程
サイトへのアクセスありがとうございます。このサイトでは写真とテキストで京都産業大学グリークラブの歴史を振り返ります。スマートフォンの方は画面右上のメニューボタンから次のページ(次の時代)に移動できます。
クラブとしての体制が整い始めた1970年代中盤から産大グリーは「全日本コンクール金賞」という明確な目標に突き進むことになる。「限りない可能性と発展へのチャレンジ精神」「一人一人の音楽作り」をモットーに、吉村信良先生、伊吹元子先生、尾形光雄先生、山口はやと先生らを迎え、グリークラブは技術的にも精神的にも著しい発展を遂げる。そして1981年、念願の全日本1位の金賞を受賞した。
1976第13回京都合唱祭6月、名古屋工業大学合唱団とのジョイントコンサートを大谷ホールで開催する。 以下:吉村先生記 初の関西金賞第1位を頂いたのは翌1976年でした。はじめての全日本出場は、まことにつつましやかなものでした。お金がないために、高松まで貸切バスで往復し、現地では一泊だけ、当日は出演と同時に大学の部の演奏終了までは何とか聞いて、審査発表は待たずに一同帰路につきました。もちろん入賞などは全く考えず、ただ全日本のステージを踏めたよろこびをかみしめながら幸せに京都に向かったのです。結果として第2位銀賞のニュースを、岡山県内2号線沿いのドライブインで知った時の狂気ぶりは大変なものでした。 | 1976年12月 第8回定演京都会館 |
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1977全日本コンクール東京「Ave Maria」 「Tarantella」 2位銀賞 以下:吉村先生記 1977年東京大会の銀賞受賞はひとつの問題を提起しました。たしかによく練習も積み重ね、いい演奏が出来たのですが、全日本レベルの他大学がそれ以上に立派である筈のことを忘れていました。井の中の蛙。成り上り者。思いあがりでした。銀賞を獲得できたのに心から喜こべなかった事実に対する率直な反省が、4年後の1981年の結果としての金賞につながったことはたしかでした。 | 第10回定演パンフレット1978年函館、79年横浜、80年名古屋と、幸いにも銅賞ながら入賞をつづけてきました。グリー自体の力は、年を追って上昇してきましたが、反面、賞の内容は下降気味でした。他大学のレベルがグリー以上に驚異的に向上したのに引きかえ、グリーの音楽が全日本常連になることによって、守りの音楽にかわってきたのです。一方、全日本出場による出費はどんどん増えていったのですが、OB会の皆さんの類を見ない献身的なご支援のおかげがあったことは、いくら感謝しても感謝し切れませんでした。 |
1978年のグリーメン以下:1981年1月第12回定演パンフレット日下部吉彦先生の寄稿文より抜粋 (前略) 京産大グリーにもそろそろ、 そんな雰囲気が出てきました。関西コンクールで優勝するのは当たり前でそれ以上のもの、つまり全日本をねらえというのが、外野席の正直な声です。 しかし全日本の壁は厚いですねぇ。昨秋1980年の名古屋での全日本コンクールを聞いてもつくづくその実感がいたします。 今までの大学合唱の常識ではとてもだめのような、それほど高いレベルで競われています。 産大グリーの諸君。あなた方の音楽は実に素晴らしい。10年前なら”奇蹟”と言う表現が当てはまるほどに、練り上げられた音楽です。でもスタンドの観衆は贅沢です。 もっと大きなホームランを期待しているのです。トップランナーの辛さ、責任、その重圧をはねのけるほどのバイタリティーをあなた方はきっと思っています。 今夜の定期演奏会がより輝かしい新年のスタートになりますように。 | 1978年のグリーメンTop & Second この当時の1回生が4回生になった1981年、とうとう念願の全日本1位金賞を獲得することとなりました。 以下:1980年の団内報からの抜粋 団内報第2号を出すにあたり、団内報の名前が必要となった。何かグリーにふさわしい親しみのある名前はないだろうかと頭をひねったが何も出てこない。そんなある日、連盟の仲間に付き合って飲みに行った。 1軒目で真っ赤になったのに、誘われるままに2軒目に、ふと見るとスナック「おたまじゃくし」と書いてあった。その瞬間「うん、これだ」と。 「おたまじゃくし」音譜のことも意味し、のちには蛙となり飛び跳ねる。音譜1つでは音楽は成り立たない。僕らは一人一人「おたまじゃくし」である。90の人間が集まるからいい音楽が出来るのである。今は未熟だけど、いつかは飛躍することが出来る若者の集まりである。団内報を一つの付き合いの場として活用していきたいものである。 (浦野) |
1981全日本1位金賞1981年、この年の戦力は、とくにメロディを歌うトップ群が、それまでとちがってスター不在となり、前期は実力低下を心配することしきりでした。しかし、トレーナーの精力的な指導とそれに応えた部員たちの研鑽が実を結び、全日本一を誇るテナーパートが実現したのです。関西支部大会で7年連続の金賞を獲得した10月18日の夜、クラブ員全員が打ちそろい、私に福岡での全日本を振ってほしいと申し出たのです。指揮者の峯君が代表になって…。部員たちを全面に押し出して今まで頑張ってきたのに、今年、峯君に全日本の晴れの舞台を振らせないのは可愛そうだ、それに私が振ったからといってすぐにいい成績がとれるわけはない。でも現役のみんながそういってくれるのだし、正直なところ福岡のステージに今の部員みんなと一緒に出られることはとてもうれしい。 (次の写真に続く) | 1982第13回定期演奏会(前写真からの続き) そんな気持ちが全員に伝わったでしょう。福岡到着後の練習から本番まで、あんな自然な顔をした部員たちを今までみたことがありませんでした。大学の部ただひとつの金賞、その予想だにしなかった発表の瞬間、OB寺岡君は客席内を狂い走り、しっかり下稽古して私を晴れの舞台へ立たせてくれた学指揮の峯君はメガネをずりおとして私にしがみつき、サブコン長尾君は私の足もとにうずくまって号泣していました。 このすばらしい瞬間を作ってくれたのは、産大グリー16年間のメンバー200名でした。そして、伊吹・佐々木・尾形三先生でした。この皆さんの熱意にお応えすること、それはもうただひとつ、おごることなく、卑下することなく、クラブの歴史を正確に伝えながら、つまり初心に帰ることを常にわすれず、若者たちと一緒に歩んで行くこと以外にはないことを痛感したのです。 |
1982年1月 第13回定演京都会館第1ホール 全日本1位金賞を記念して | 1983第14回定演パンフより以下:吉村先生が京都市芸術奨励賞を受賞された際、多田武彦先生から吉村先生に贈られた「男声合唱組曲 草野心平の詩から・第二」について多田先生からの寄稿文より抜粋 (前略) 受賞記念に組曲を一つ書く事を思いついた。そういえば、吉村氏を通して京都産業大学グリークラブとは昭和49年からの付き合いになるが、今まで私の新曲を初演してもらった事がない。そこで、この組曲を吉村氏に贈るのを機に、吉村信良指揮、京都産業大学グリークラブ初演をイメージして「男声合唱組曲 草野心平の詩から・第二」を書いた。 (中略) 全日本コンクールで見事2年連続金賞に輝いた吉村信良、京都産業大学グリークラブ、それに声づくりに貢献のあった尾形・山口両先生のソロという名配役により、この組曲の初演がおこなわれることは大変嬉しい。 (以上) この第14回定演は京都会館第2ホールで昼夜2回公演された。 |
1983 ザ・シンフォニーホール大阪フィルハーモニー、小林研一郎指揮、マーラー作曲:交響曲第2番「復活」に出演。 | 1984 1月第15回定演京都会館第1ホール 合唱による風土記「阿波」。繊細かつダイナミックなソロで魅せるTopパートリーダー野田敏行氏 |
Sky Blue Variationこの頃、故 浦山哲夫氏(第17代学生指揮者)の情熱と統率力で「SKY BLUE VARIATION」と題する歌劇が3作に渡って企画され演奏会で披露された。 | スカヴァリRevo No.1515回定期演奏会“REVOLUTION NO.15”(ロシア革命を寸劇にしたもの)の写真 第17代学生指揮者浦山哲夫(故人)は強烈なリーダーシップで83年から夏に単独コンサート「SUMMER CONCERT」を強行し、そこからオペラ風ステージ“SKY BLUE VARIATION”をスタートさせる。当時関西学院グリークラブが同様のステージを始めており、追いつけ追い越せと言わんばかりにステージコートを脱いで歌と踊りと芝居交じりのものであった。賛否両論ある中で第15回定期演奏会では“Revolution No15”と称した1.5時間に及ぶステージを繰り広げた。荒々しく勢いだけで始めたこの企画ステージは将に山猿魂の象徴というべきものであったかもしれない。 |
第16回定演パンフレットより | 1984全日本大阪大会大阪フェスティバルホールにて、4年連続の金賞を受賞したこの年の夏(後に1986年と二回)初心を忘るべからずの精神をもって“琵琶湖一周道ばたコンサート”という街角、観光地、海水浴場等でいきなり演奏する大道芸ともいえるコンサートを実施し、お客様からも称賛され、またメディア等からも評価を得た。 |
1986年1月第17回定演以下:吉村先生による第17回定演パンフレットへの寄稿文からの抜粋 (前略) 1984全日本は地元大阪フェスティバルホール (中略) 第18代曽田俊和君は学指揮として最高の卓抜な能力をもって下稽古をやってくれた。 先日の長野の全日本コンクールでの演奏は快適だった。R.シュトラウスの名曲「DIE TAGESZEITEN」の選曲もよかったが、第19代指揮者野崎恭輔君を先頭に団員たちが、本番の演奏を幸せいっぱいに楽しめたことが最高だったと思う。5年前の福岡での喜びを知らない全団員が、長野の本番直前に、全く新しい形でその歓喜をみごとに再現したのだった。 いつの場合でもすべてのお膳立てを整えて私を晴れ舞台に誘導してくれる尾形チーフと山口トレーナー、そして本番の音楽作りの大部分を受け持ってくれる伊吹さんには、いくらお礼を言っても言いきれない。物心両面で常に惜しみなく応援をしてくれるOB諸兄と大学当局、特に柏学長と杉本顧問教授には感謝の気持ちでいっぱいだ。 |
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